みなさま、こんにちは
本日は、4月から入社した新たな社員の歴史調査・学習報告書を共有させていただきます。
小松の歴史について少し考え見ることを最初の研修課題といたしました。
【小松市歴史調査・学習】
小松市は、市制施行が始まり2020年で80周年という節目を迎えた。
1940年(昭和15年)に小松町は隣接する能美郡安宅町、牧村、板津村、白江村、苗代村、御幸村、粟津村と合併し、小松市が発足。全国176番目で、南加賀最初の市制の誕生となった。
交通関係について
1972年10月 北陸自動車道金沢西―小松間開通
金沢西―小松インターは、走行時間にして約15分と短距離部分開通だが、経済発展の起爆剤と役割を果たすものと期待された。
1982年7月 小松インターと八号線直結バイパスが完成
北陸自動車道小松インターと国道八号線を結ぶ市道バイパスが、小松市島田町の立体交差橋の完成に伴い、全面開通。このバイパスの開通でインターや小松空港を利用する車やバスの通行が便利になり、市街地の混雑の緩和が期待された。
・小松飛行場
昭和16年に太平洋戦争が勃発すると農地開発営団により、食糧増産の名目で松林が伐採されたが、これは海軍飛行場建設のためのカモフラージュとしてだった。
戦時中に陸軍が駐在する軍都金沢に対抗して、小松を空の軍都として立ち上げる計画であった。しかし、戦局の悪化に伴い、陸の金沢に対抗した空の小松の大軍都構想は進まなかったが、飛行場は航空基地として一定の役割を果たした。戦時下で誕生した小松市は、計画書通りの空の軍都にはなれなかったが、飛行場と製作所を基盤とした工業都市として、発展していった。
昭和19年、小松飛行場は戦争末期に海軍飛行場として発足し、戦後米軍に摂取されたが、米軍管理下において昭和28年4月から民間航空会社が貨物運輸を開始、昭和30年からは定期便も運航された。
昭和27年1月、衆参両議院に対し石川、富山、福井三県知事と小松市・小松商工会議所等から小松飛行場を北陸の「空の玄関」民間飛行場として使用したいとする請願書が提出された。この時期の飛行場は未だ米軍管理下にあったが、防衛庁から米軍の飛行場返還後に自衛隊ジェット基地化を図りたい旨が伝えられてきていたため、市民間では賛否両論が入り乱れ騒然となった。反対派は市民の生活と平和を守るために絶対阻止を叫び、賛成派は1500人の隊員が駐屯する経済効果は極めて大きいとして激しく対立したが、基地先進地の静岡県浜松市や愛知県小牧市を調査した結果、騒音対策や十分な補償、資材の地元調達等を前提として市議会総会でも議論の末に賛成決議がなされた。
昭和32年4月、小松市郵便局では、航空郵便の取り扱いを開始した。これによってこれまで汽車便で扱っていた速達郵便物で、定期航空路が開かれている所へ行くものは、一段と配達が早められた。
昭和33年2月19日、小松飛行場は米軍から日本政府に返還され、大蔵省の北陸財務局が管轄することになった。
民間利用が活発化する中でのジェット基地化は、運輸省管轄の飛行場と防衛庁管轄の航空基地が共存することになり、論議を呼んだが、結局、防衛庁管轄の基地が空港環境整備の中心となり、民間飛行場がこれを利用していくという、基地が「主」で飛行場が「従」の方針が確定した。
国内の定期便が就航し、民間空港としての小松飛行場も順調に発展していき、また国内・国際線新旅客ターミナルビルも完成し、「飛行場」から「空港」へと発展していった。一方で、民航の発展と軌を一にして自衛隊基地も拡張されていった。防音工事についても、民間住宅はもちろんのこと、教育・福祉等の公共施設にもきめ細やかな対策を実施し、基地周辺の排水路や電波障害への対策工事も実施してきた。これらの事業は、市内外の協力業者との連携で行われ、地域経済の活性化にも貢献してきた。
民間航空としての小松空港が、「北陸の空の玄関」として、また国際都市小松の顔として発展していく過程で、エプロン拡張や滑走路の嵩上げ、国際ターミナルビル建設、防疫やテロ対策の充実、国内・国際旅客線、国際貨物線、国内・国際乗り換え線の拡大・充実は、臨空産業都市小松の構築には必要不可欠なものであり、この実現に向けて官民を挙げて尽力している。このような歴史を経て小松飛行場は、国際空港として、また空の守りの要として様々な苦難を乗り越え、順調に発展し続けている。
・自然環境について
能美丘陵と江沼台地の間に広がる平野に加賀三湖と称する柴山潟、今江潟、木場潟があった。三湖の流域約二万ヘクタールの水はすべて梯川を通じて日本海へ流出していたが、雨季の増水によって梯川下流の水位が上がるに伴い三湖の水位が上昇することがあり、潟沿岸の水田が水没する被害が生じた。また、渇水期には海水の逆流による塩害が発生したほかに、冬期には季節風による高浪で梯川河口が打ち上げられた砂礫で閉塞してしまい、行き場を失った梯川の水が三湖へ逆流して水害をもたらした。潟の水位を制御することは地元農民の悲願で明治以来今江水門の設置など様々な対策がなされたが、地殻変動に伴う地盤沈下が加わって有効なものではなかった。1932年(昭和7年)浮柳地内に梯川逆水門を新設して梯川から今江潟への逆流の防止を図ったり、中小河川の改修など局所的な排水事業が行われてきたが、食糧増産が要望されるなか根本的な対策を施すべき時が来たと三湖干拓計画が取り上げられ、昭和27年農林省は国営加賀三湖干拓事業を開始した。柴山潟は60%を干拓し、新堀川を新設して排水を行った。今江潟は全部を干拓して農地とし、大規模農業をの育成を行った。木場潟は遊水地として残すが、事業名称は「加賀三湖干拓事業」のままとして変更せず、昭和44年に干拓事業が完了した。石川県立木場潟公園は昭和48年都市公園として計画された。石川県内でほぼ自然のままの形で残された唯一の潟で、古来からの水郷環境が守られている。カヌー競技場では石川県カヌー協会主催の全国大会が常に実施されている。
梯川は白山山系大日山連峰の鈴ヶ岳に源を発する大杉谷川を源流とする。平野部に出てから西へ向きを変えて、鍋谷川、八丁川、前川を合流して小松市安宅町で日本海に注ぐ。平野部では低湿地の沖積平野を蛇行して流れ、雨季には微高地に点在する集落や市街に水害をもたらしてきた。政府は明治2年に白江町の河道を直線化し、明治44年に下牧・浮柳間の河道直線化を進めた。更に河道の拡幅、堤防のかさあげを続けてきた。小松砂丘を横切って日本海に注ぐ梯川の河口は冬季の西よりの季節風によって海中の砂礫が河口に堆積して閉塞し、俗に水戸塞えと称される流域農地の冠水害をもたらした。昭和12年、河口の北側に50m、南側に100mの道流提が完成し一旦は防止できた。しかし、平成10年9月台風7号で道流提の一部が欠損するなど、その後も道流提が波浪によって流され、補修工事が繰り返されている。
参考資料
新修 小松市史10 図説 こまつの歴史
新修 小松市史 資料編18 近現代